幼児に体育指導をしていると様々な出来ないに遭遇します。
指導時間中に必死になって教えることはもちろんしますが、残念ながら一足飛びにできるようにはなりません。
泣いたり、落ち込んだり、怖がったりする子供を見て「少し多く練習しよう」と声をかけ、親御さんにも説明と協力依頼をいたします。
そうして、ついに子供は困難を克服し苦手な種目を成功させる瞬間を迎えます。
初めての成功に子供は大喜びです。
指導者としても、我が事以上に一緒に喜び感動を覚えます。
ところが、予期せぬ言葉を子供がつぶやく時があるのです…
「もう特訓はしなくていいんだよね!」
これは私の若い頃に、2、3度あったた実話です。
このことから私こと”めだかアイデアマラソン”は自分の運動指導に大きな疑問を投げかけてしまいました。
スポーツ指導をとは何か、子供が本当に求めているものは何なのか?体育指導とはなにか…
→子供は運動技能を習得したいのか?
スポーツ指導に携わる人は「上達」を感じ、技能を「習得」することは素晴らしいと信じています。
できなかった技ができるようになる瞬間は、教える側にも教わる側にもなんとも言えないような達成感が生まれる瞬間です。
先に上げた子供は運動の技を習得し運動の技術も上達しました。
しかし最後に私に投げかけたセリフは…( ;´Д`)なぜその子の口からはこんなセリフが出たのでしょうか?
きっと、その子の本心は「その運動技能が出来るか?」なんてことはどうでも良かったのだと思います。
出来なくてもいいし、出来れば出来たで嬉しい…でも私が必死に教えてくれるし、親からも期待されているから練習しなきゃ!とはわかっているけど…あぁ、でもあとどのぐらいこの練習は続くのかな?…こんな心の声が漫画のふきだしのようにあったのでしょうね。
しかし、当時の私はこの気持ちに気付くことは出来ませんでし、指導時間中に出来なかった事が悔しいだろうから出来るまで少し多くの時間練習に付きあって必ずできるようにしてやる!と、一方的な解釈だけをしていたと思います。
その子の思いとは裏腹に、出来なくて悔しがっていること→達成できたらとてつもなく喜ぶに違いない、という当時の方程式が見えてきますね。(笑)
→技能を教えるより大切だったこと
この私の例は極端に映るでしょうが、似たようなケースで、ほとんどの運動指導・スポーツ指導の現場で指導者が熱血を振りかざしているシーンを見られると思います。
たとえば縄跳びでも「ここで跳べたら嬉しいに違いない!」という教える側の勝手な思い込みにより、子供が望んでいないのに無理矢理に、他の子供はそっちのけで特訓を始めるコーチがいました。
それは若き日の”めだかアイデアマラソン”です。
目標設定している技能や初めての動きを修得し成果を見られるようにするためには、反復練習が必要です。
しかし地味な練習を繰り返し、しかも失敗ばかりする練習のどこが楽しいでしょうか?
子供の集中力はみるみる削がれていき、その場にしゃがみ遊び始める子も出てくる始末です。
こういった失敗を導きだした原因は、順番を間違えていたことなのです!
運動技能の習得を教えるより、まず初めに運動や仲間や指導者との共有する時間そのものが楽しい事を伝えなければいけなかったのです。
縄跳びって楽しいね!!この遊び楽しいね!!みんなと頑張ると楽しいね!!先生っていいね!!と思ってもらうことが最優先だったのでした。
楽しさを自分自身で見いだした子供には小手先の指導をするためのテクニックでは必要ありません。
放っておいても勝手に練習を続けるのです。
こちらが、取り組む運動を提供すれば興味を持って”すぽんじ”のように吸収していきます。
運動の指導では「その運動そのものに楽しさを感じる」というベースを作ることが重要な事であるのです。
→まとめ
子供に運動を教えるとき、大人は「開脚跳び」「逆上がり」「二重跳び」などの成果目標のハッキリとわかりやすい運動に目が行きがちです。
確かに上達・習得は素晴らしい体験でしょう。
しかしこれらの目標は、運動やスポーツの一端に過ぎません!!
運動技や理論に基づく成果だけでなく、運動・スポーツ活動の「楽しさ」や「やりがい」を通して人生を豊かに歩めるような体育指導をハートウィングで推進したいと思っています。